東京地方裁判所 昭和61年(ワ)4323号 判決 1990年6月22日
千葉県野田市<以下省略>
原告
X
右訴訟代理人弁護士
永井義人
同
茨木茂
東京都港区<以下省略>
被告
リッチアメリカン株式会社
右代表者代表取締役
Y1
長野県長野市<以下省略>
被告
Y1
神奈川県横浜市<以下省略>
被告
Y2
東京都杉並区<以下省略>
被告
Y3
千葉県浦安市<以下省略>
被告
Y4
埼玉県新座市<以下省略>
被告
Y5
右六名訴訟代理人弁護士
浅井洋
主文
一 原告の請求をいずれも棄却する。
二 訴訟費用は原告の負担とする。
事実
第一当事者の求めた裁判
一 請求の趣旨
1 被告らは各自原告に対し、金二三〇〇万円及びこれに対する昭和六一年二月一日から支払ずみまで年五分の割合による金員を支払え。
2 訴訟費用は被告らの負担とする。
3 仮執行宣言
二 請求の趣旨に対する答弁
主文同旨
第二当事者の主張
一 請求原因
1 当事者
訴外Aは、昭和五九年○月○日生れの女性で、昭和二二年から昭和六〇年三月まで地元の小学校の教師をしていたものであり、商品先物取引については未経験であり、昭和六一年二月二八日東京大学医学部附属病院(以下「東大病院」という。)で乳癌のため死亡した。原告は、Aの一人娘である。
被告リッチアメリカン株式会社(以下「被告会社」という。)は、海外商品先物取引等を目的とする会社であり、被告Y1(以下「被告Y1」という。)は被告会社の代表取締役、被告Y2(以下「被告Y2」という。)及び被告Y3(以下「被告Y3」という。)はいずれも被告会社の取締役、被告Y4(以下「被告Y4」という。)は被告会社の監査役、被告Y5(以下「被告Y5」という。)は被告会社の本社営業部第三課社員であったものである。
2 Aと被告会社間の取引
(一) Aは、昭和六〇年五月二八日、被告会社との間で、海外先物取引委託契約を締結し、本件海外先物取引を開始するとともに、被告会社に対し、同月三〇日に金八四〇万円を、同年六月一四日に金一一六〇万円をそれぞれ保証金として交付した。
(二) 被告会社は、昭和六一年一月二二日に本件海外先物取引を清算した結果、金二五四九万五五八一円の損失を残しているとしている。
3 本件海外先物取引の違法性
(一) 先物取引における適格性原則違反
先物取引は投機であり、利益を得る場合よりも損失を被る場合が多く、しかもその損失は多額なものとなる危険な取引であるとともに、海外先物取引の場合、相場変動は為替相場の変動も含め複雑な要因によって決定されるものであるから、売買の判断は容易なものではない。
したがって、海外先物取引を行なう適格性としては、上場商品の相場変動について十分な理解力、冷静な判断力、思わぬ損失に耐えうる資金力を有していることが要求されるだけでなく、自主的、主体的に指示・判断しうる意思とそのための時間的余裕があることが不可欠である。
しかるに、Aは、長年小学校の教師をしてきて退職したばかりのもので、余裕資金もなく一人娘の原告と母子家庭を営んでいたもので、先物取引とか株式、不動産等の投機的な取引には無縁で、せいぜい国債、定期預金、ビッグ(収益満期受取型貸付信託)等の安全な取引の経験しかなく、被告会社に委託して海外先物取引を開始してから後も相場について研究したり、情報誌を購読するといったこともなかった。
特に、Aは、右取引当時癌の末期患者(昭和五八年乳癌のため左乳房全摘手術、昭和六〇年一月右乳房全摘手術をそれぞれ行なったが、その後も全身に転移。)で同年四月以降は東大病院の入退院を繰返していたものであり、気力、体力の消耗を防ぎ闘病に全力を注がねばならぬ立場にあり、高度に神経をすり減らす海外先物取引などできる状態ではなかった。
すなわち、昭和六〇年五月三〇日当時は、第一回の東大病院入院(同年四月一七日から同年五月一七日まで)と第二回の同病院入院(同年七月九日から同月二八日まで)の中間の時期で、Aは、自宅で療養中であったが、「胸が痛い。痺れ感がある。」、「家の中にいることが多い。両脇下がつれる。両腕が痺れる。腰痛がある。」などといった状態にあり、どうみても、主体的に海外先物取引を行なえる状態ではなかった。
被告らは、こうしたAの惨状を十分承知しながら同人を本件海外先物取引に誘いこみ金員を騙取したもので、その行為には極めて強度の違法性があるというべきである。
(二) 向い玉による客殺し
被告会社における取引の仕組は、まず、顧客の注文を訴外ボーデンシー株式会社につなげ、同社は、これをアメリカのFCM(日本の商品取引員にあたる。)のアイオワグレインカンパニーにつなげ、その一方で、被告会社は、顧客の売と買の差について自己玉(向い玉)を建てて売買同数とし、これをボーデンシー株式会社につなげ、同社は、それをアイオワグレインカンパニーにつなげるというものであった。これは海外先物取引業者の典型的な客殺しの手口であり、被告らがはじめから顧客であるAを食い物にする意図を有していたことを如実に示すものである。
つまり、売買同数の注文を続けている限り、顧客の損で業者が儲かる、換言すれば、業者が利益をあげるためには、顧客を損で終らせるほかないという取引の構造になっているのであり、業者側には委託保証金を流用できるというメリットもあるのである。したがって、被告らとしては、顧客の損失を目指して行動する以外にはなく、たとえ相場自体を操縦することができなくても、被告らの相手としていた海外先物取引に無知未経験のAら顧客を操縦することは容易なことであった。
また、被告会社の行なっていた向い玉は、顧客に知らせずに「即日建てて即日仕切る。」という方法によっていたものであり、顧客は、自分の注文した玉が市場で建っていると錯覚しているが、実際にはそのような建玉はないのである。したがって、これは限りなく呑み行為に近い行為というべきである。
また、被告会社は、被告Y1が引継いだ時点から債務超過状態にあり、その後も赤字が増加していたものであり、会社の収入を増やすべく、会社の収入が増えれば外務員の利益も増えるという、いわゆる「純増方式」ないし「手数料に対する歩合」といった業績給制度を採用していたもので、会社の収入が増えれば、外務員のみならず会社役員の報酬も増えることは明らかであるから、全社的にAら顧客を食い物にするために日夜最大限の努力をしていたのである。
(三) 違法不当な勧誘
Aは、昭和六〇年五月下旬頃、被告Y5の勧誘を受けたが、その際、同被告は、Aに対し、先物取引の仕組や危険性といった重要事項を十分に告知せず(海外商品市場における先物取引の受託等に関する法律九条)、「スプレッド取引だから安全だ。儲かります。」などと断定的、利益誘導的勧誘をした(同法一〇条一、二号、商品取引所法九四条一、二号)。
(四) 無断売買
Aの入院期間中の売買なるものは完全な無断売買である。すなわち、昭和六〇年八月一九日に第三回の東大病院入院以降Aは、極度の苦痛のため常時ベッドで横臥しており、病室も大部屋で同室者に憚られて、とても金銭問題など話のできる状態ではなかったし、実際にも被告らが売買の承諾を求めた事実はないのである。
4 被告らの責任原因
(一) 被告Y5
同被告は、本件海外先物取引が前述したように違法なものであることを知りながら、Aをこれに誘いこんだものであって、不法行為者として民法七〇九条の責任がある。
(二) 被告会社
被告会社は、前同様に、民法七〇九条又は同法七一五条一項による責任がある。
(三) その余の被告ら
同被告らは、本件海外先物取引当時、被告会社内で1記載の各役職にあったものであり、全員かつてアイシーエスという海外先物取引会社に勤務していた仲間であり、その当時から海外先物取引の手口を十分身につけていたし、向い玉のことも皆知っていた。被告会社では、全体会議、営業会議、内勤会議等が開催され、同被告らのうち被告Y1を除く者達は、被告会社に入社するまで本件と同様の方法で業務を遂行していた訴外株式会社日豊の社員であった者達である。
したがって、同被告らは、被告Y5と共謀のうえ、本件のごとき違法な海外先物取引を行なったものであるから、民法七〇九条、七一九条に基づき、共同不法行為責任がある。
(四) 被告Y4に対する予備的責任原因
仮に、同被告が、被告会社の現実の運営に関与していなかったとしても、本件不法行為の組織的、構造的な態様からして、その余の被告らの行為を幇助したことによる不法行為責任は免れない。
仮にそうでないとしても、被告Y4は、株式会社日豊の役員をしていたもので、被告会社の監査役に就任するに際しては、当然被告会社の業務の概要は聞いていたはずである。したがって、少なくとも同被告には本件不法行為を誘発した点で過失責任がある。
5 相続
Aは、前記のとおり昭和六一年二月二八日死亡し、原告が唯一の相続人である。
6 損害
(一) 委託保証金 金二〇〇〇万円
Aは、前述したとおり、被告会社に対し、委託保証金名下に合計金二〇〇〇万円を交付し、右金額相当の損害を被った。
(二) 慰藉料 金三〇〇万円
Aは、不治の病におかされて苦痛に喘いでいる中で、一人娘である原告のために蓄えていた亡夫の財産及び自己の苦労の結晶たる財産の中から大金を騙し取られたものであり、被告らの不法行為により多大の精神的苦痛を被った。これを慰藉するには金三〇〇万円が相当である。
(三) 弁護士費用 金二六九万円
原告は、被告らに対し、右一、二の損害合計金二三〇〇万円の賠償請求をなしうるものであるところ、被告らが任意の弁済に応じないので、原告訴訟代理人らに、本件訴訟によってその取立を委任し、その費用等として日本弁護士連合会弁護士報酬規程に基づき金二六九万円を支払う旨約した。
7 結論
よって、原告は、被告らに対し、不法行為による損害賠償請求権に基づき、連帯して前記損害合計金二五六九万円の内金二三〇〇万円及びこれに対する不法行為後である昭和六一年二月一日から支払ずみまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求める。
二 請求原因に対する認否
1 請求原因1・2の事実は認める。
2 請求原因3(一)の事実のうち、Aが長年小学校の教師をしてきたこと、株式売買の経験のないことは認めるが、同人が海外先物取引の不適格者である旨の主張は否認する。Aは、一度として被告Y3や被告Y5に対し自己が癌だということを告げたことはないし、被告らもそのことを知らなかった。被告らにおいても、今となってはAが癌の末期患者で闘病生活を送っていたであろうことはあえて否定しないし、同人が時折痛みを覚えたことも推測できないではないけれども、当時被告らとしてはそのような事実は全く分らなかったというのが事の真相である。Aが原告主張のように常時痛みを覚えるような状態にあったのであれば、そもそも被告らと会うことすらしなかったであろう。
3 請求原因3(二)の事実のうち、被告会社における取引の仕組が原告主張のようなものであったことは認めるが、それが違法であるとする原告の主張は否認する。
相場変動の正確な予測も、相場操縦も不可能であるから、向い玉が有利になるか、委託玉が有利になるかを決しうるものではない。
向い玉に関する原告の見解は、結局全期間中の全委託者のトータルでは、委託者の損失の総合計が被告会社の利益、委託者の利益の総合計が被告会社の損失となるから、被告会社を経営するためには、顧客に損失を生じさせるようにしなければならないというものである。
しかし、この見解は、次の点で誤りである。
第一に、向い玉は、顧客と取引員の利害を相対立させるものではない。商品先物取引の特質は、取引所の定める業務規定に従って相手方を特定することなく、一団の売方と一団の買方との間で成立する集団売買という点にある。したがって、先物取引における利害対立は、商品取引員と委託者との間にではなく、売集団と買集団との間にあるのである。つまり、商品取引員は、取引所の会員であるから、自己の計算において売買することも、委託者の委託を受けて、委託者の計算において商品取引員の名において売買することもできるが、いずれの場合も、個々の委託者の売買注文はその個性が喪失し、そこには買集団と売集団の対立しか存在しないのである。
第二に、海外先物取引業者にとって、顧客に損をさせる必要はなく、業者が存続する間全顧客の全取引の総合計で損益がゼロであれば十分であり、それ以上は望むべくもない。
第三に、原告の議論は、商品取引所制度は会員組織になっており、主務大臣から許可された者のみが市場で売買でき、その場合はすべて自己の名でこれをなす権利をもっていることを忘れた立論である。
第四に、商品取引員に自己玉を認めている以上、現行制度上は委託者の一部と必ず対立する売買が一時的に成立するが、それは商品取引員と委託者との対立ではない。
4 請求原因3(三)の事実は否認する。被告Y5は、Aに対する勧誘に際し、当初同人に対し、次のとおり説明し、「効率的資金運用」と題する紙片、スプレッド実績表、計算方法を書いた紙片、その他説明に用いた被告会社の社箋一切を置いてきた。
(一) 資金の効率的運用方法として、三分の一は定期預金のように安全なもの、三分の一はやや効率のよいもの、三分の一は投機性があり、有利である反面危険性の高い利殖方法によるのがよい旨説明した。
(二) スプレッド取引の内容について説明するとともに、同取引も先物取引であること、各商品、米国産大豆、コーン、小麦の各取引の単位等の取引の仕組、保証金、手数料額、両建、難平、途転、決済、追証等について説明し、相場の判断方法として、相場の決定要因には需給関係、季節的要因、世界情勢等があること、日本経済新聞の夕刊に海外商品相場欄があること、値段には気をつけてメモしてその動きを見守ること、海外市場のテレフォンサービスがあるので利用すること、値段については被告会社に聞いても教えることなどを説明した。また、経済雑誌を読むことも重要であることを伝え、Aの求めに応じてダイヤモンド誌一冊を贈呈している。
(三) 海外先物取引の危険性についても、株の例を出して預貯金に比べ損をすることもある旨説明している。
その後、被告Y5は、昭和六〇年五月二八日、再度Aを訪問し、先物取引の手引に基づいて更に説明し、リスク告知書、契約書の内容を説明するとともに、それらを手元に置いて読んでくれるよう求め、同人からそれらの書類の受領書を徴している。
したがって、被告Y5は、Aに対し海外先物取引が安全であると説明してはいないし、同人もそう信じた訳ではない。
5 請求原因3(四)の事実は否認する。Aの容態が悪化したのは昭和六一年一月二〇日の東大病院の入院前後からであって、それまでは自宅にいて、個別に取引の承諾を与えている。したがって、結局、Aの取引のうち疑問がでるのは、同月一七日のとうもろこしと小麦の決済部分と同月二〇日のコーヒーへの移行部分の二点のみである。
6 請求原因4の事実はいずれも否認する。なお、被告会社の資本金は一億円に満たないから、その監査役たる被告Y4には、取締役の業務執行に対する監査義務はない。
7 請求原因5の事実は認める。
8 請求原因6の事実は否認する。
第三証拠
証拠関係は、本件記録中の書証目録及び証人等目録記載のとおりであるから、これらをここに引用する。
理由
一 請求原因1の事実(当事者)及び2の事実(Aと被告会社間の取引)の事実はいずれも当事者間に争いがない。
二 そこで、請求原因3の事実(本件海外先物取引の違法性の有無)について判断する。
1 先物取引における適格性原則違反の主張について
原告は、Aが、長年小学校の教師をしてきて退職したばかりのもので、余裕資金もなく一人娘の原告と母子家庭を営んでいたもので、先物取引とか株式、不動産等の投機的な取引には無縁で、せいぜい国債、定期預金、ビッグ(収益満期受取型貸付信託)等の安全な取引の経験しかなく、被告会社に委託して海外先物取引を開始してから後も相場について研究したり、情報誌を購読するといったこともなかったから、先物取引をする適格を欠く旨主張し、成立に争いのない甲第九号証によれば、恩給・年金・退職金・保険等により主として生計を維持する者、母子家庭該当者、長期療養者、主婦等家事に従事する者に対する不適格の勧誘は、取引所約款禁止事項とされていることが認められる。
しかしながら、Aに対する勧誘が仮に一部右取引所約款禁止事項に該当するとしても、右約款は、いわば、商品取引員相互間の内部的取決であって、これに違反した場合、商品取引所が取引員等に対して厳しい制裁を課することがあるとしても、それはいわば自主的規制にすぎないから、右約款に違反する行為が委託者との関係において、直ちに違法な行為となるということはできない。
原告の主張は、ひっきょう、いわゆる一般素人に対しては先物取引の勧誘をしてはならないという結論に至ることになるが、商品取引所法はそのような勧誘を禁じているものとは認められないし、被告Y5本人尋問の結果によれば、Aに対する勧誘は、被告会社の外務員たる同被告が教職員名簿でAの名前を知ったことがその端緒となったものと認められるところ、教職員名簿による以上、新規委託者の開拓を目的として面識のない不特定多数者に対して無差別に勧誘したいというのではなくて、少なくとも顧客の年齢、教育程度、社会的地位、(元)職業、(元)勤務先等を確認し商品取引の不適格者でないと判断したうえで勧誘を行なったものと推認される。しかも、右尋問結果によれば、同被告は、二回にわたりA宅を訪問して同人と面談して右の各点のみならず、同人の資産、理解力等についても直接確認していることが認められる。したがって、原告の右の主張は理由がない。
また、原告は、Aが、本件海外先物取引当時癌の末期患者(昭和五八年乳癌のため左乳房全摘手術、昭和六〇年一月右乳房全摘手術をそれぞれ行なったが、その後も全身に転移。)で同年四月以降は東大病院の入退院を繰返していたものであり、気力、体力の消耗を防ぎ闘病に全力を注がねばならぬ立場にあり、高度に神経をすり減らす海外先物取引などできる状態ではなかった、すなわち、昭和六〇年五月三〇日当時は、第一回の東大病院入院(同年四月一七日から同年五月一七日まで)と第二回の同病院入院(同年七月九日から同月二八日まで)の中間の時期で、Aは、自宅で療養中であったが、「胸が痛い。痺れ感がある。」、「家の中にいることが多い。両脇下がつれる。力腕が痺れる。腰痛がある。」などといった状態にあり、どうみても、主体的に海外先物取引を行なえる状態ではなかったと主張し、その方式及び趣旨により原本の存在及びその成立を認めることができる甲第二号証、二四号証の一ないし四、第三二号証に原告本人尋問の結果を総合すれば、Aの病状及び治療の経過はほぼ原告主張のとおりであることが認められる。
しかしながら、こうしたAの病状及び治療の経過のみから回帰的に見れば、一見被告らにおいて死地に赴くAをして海外先物取引に誘い込んだかのようであるが、被告Y5本人尋問の結果によっても、当初の勧誘当時Aが病気にかかっており入院の経験もあることを聴かされていた節は窺えないではないけれども、それ以上に同被告がAの真実の病名及び詳細な病状・治療経過まで知っていたことを認めるに足りる証拠はない。しかして、被告らにおいて真実の病名はともかくAが闘病中であることを知っていたとしても、そのことは、A自身その自由意思で本件海外先物取引委託契約を締結すべきか否かの判断をするに支障となるまでの障害とは認められない。
したがって、原告の右の主張も理由がない。
また、本件海外取引全体としてみても、成立に争いのない甲第二一号証及び被告Y5、同Y3の各本人尋問の結果によれば、本件海外先物取引開始後、被告Y3は昭和昭和六〇年一一月一五日、同月二七日、同年一二月二三日に、被告Y5は同年七月二二日、同年一一月一五日、同月二七日、同年一二月二七日に東大病院に入院中のAを尋ねていることが認められるのであるから、被告会社の内部においてもAが病気に罹患していることは周知ものとなっていたものと推認されるけれども、被告らにおいてそれ以上に前記Aの真実の病名及び病状・治療経過の詳細を知悉していたことを認めるに足りる的確な証拠はない。
2 向い玉による客殺しの主張について
被告会社における取引の仕組が、まず、顧客の注文を訴外ボーデンシー株式会社につなげ、同社は、これをアメリカのFCM(日本の商品取引員にあたる。)のアイオワグレインカンパニーにつなげ、その一方で、被告会社は、顧客の売と買の差について自己玉(向い玉)を建てて売買同数とし、これをボーデンシー株式会社につなげ、同社は、それをアイオワグレインカンパニーにつなげるというものであったことは当事者間に争いがない。
原告は、本件における右のような取引の仕組について、海外先物取引業者の典型的な客殺しの手口であり、被告らがはじめから顧客であるAを食い物にする意図を有していたことを如実に示すものである、つまり、売買同数の注文を続けている限り、顧客の損で業者が儲かる、換言すれば、業者が利益をあげるためには、顧客を損で終らせるほかないという取引の構造になっているのであり、業者側には委託保証金を流用できるというメリットもあるのである、したがって、被告らとしては、顧客の損失を目指して行動する以外にはなく、たとえ相場自体を操縦することができなくても、被告らの相手としていた海外先物取引に無知未経験のAら顧客を操縦することは容易なことであった旨主張する。
そこで、右の主張について判断するに、前記争いのない事実に弁論の全趣旨により原本の存在及びその成立を認めることができる乙第一一号証の一ないし一二に被告Y1本人尋問の結果を総合すれば、被告会社は、顧客からの注文に対し、機械的に一定数量を向い玉として建てて営業していたことが認められる。
ところで、向い玉は、顧客から委託を受けて顧客の計算において商品市場で行なう売買による委託玉とポジションが対当する自己玉(すなわち商品取引員が自ら商品市場で売買取引を行なう建玉)をいうものであり、例えば、委託玉が買玉である場合、同日、同場節における同銘柄、同限月の自己玉が売玉であるようなものをいうのである。
右の場合、委託者の買注文と取引員の売注文とは、取引所内で互に相手方となって取引が成立するものではなく、委託玉もそれとポジションが対応する向い玉も、それぞれ商品市場において「売集団」又は「買集団」のいずれか一部に入り売買が成立するものであり、このことはいわゆるバイカイ付け出しの方法による場合でも異ならない。
したがって、商品取引員が向い玉を建てることは、そのこと自体が委託者である顧客との間の利益相反行為となるものではなく、業界の規制の範囲内で向い玉を建てただけでは、違法となるものでもなく、商品取引員が、ことさら顧客を操縦し、顧客の損失を企画し、それが自己の利益になるように顧客を導くなど、利益相反となる事情が認められる場合にはじめて違法となるものと解される。
これを本件についてみると、被告Y1本人尋問の結果によっても本件海外先物取引のなされた当時被告会社の経営が相当に逼迫していた事実は窺えないではないけれども、そのことだけから、直ちに原告主張の客殺し商法の意図を推認することのできないことはもとよりであり、この点に関する原告の提出証拠もいずれも迂遠なもので心証を惹くには十分ではなく、むしろ、前記認定の向い玉の機械的な建玉の仕方からは、被告らが、ことさらAを操縦し、同人の損失を企図し、取引を継続させ、恣意的に手仕舞をしたとまでいうような事情は推認されないし、その他、利益相反となるような特別事情は、本件全証拠によるもなお認められない。したがって、本件海外先物取引の期間、被告会社における自己玉の取組が、Aとの関係で向い玉になるということだけから直ちに被告会社がAの損失を自己の利益に取込むことを企画していたものとまで認められるものではない。
また、被告会社が専門的な知識を集積し、情報量、資金力においてAと対当な当事者といえないことはいわば公知の事実であるけれども、向い玉がそれ自体として顧客との間で利益相反となるものではなく、相場の見通しは常に流動的であり、人によってもさまざまな見方がありうる以上、個々的な商品情報等につき被告会社が説明する内容を聞いて、顧客がこれに賛同して取引をするか、反対して取引をするかは、全く不明の事柄であり、被告会社としてもこれを自由に操作しうるものではないから、被告らに自己玉の取組をAに開示する義務があるとはいえず、同人に対し、その説明がなかったからといって、本件取引が違法又は不当となるものではない。
したがって、この点に関する原告の主張も理由がない。
3 違法不当な勧誘の主張について
原告は、Aが、昭和六〇年五月下旬頃、被告Y5の勧誘を受けたが、その際、同被告は、Aに対し、先物取引の仕組や危険性といった重要事項を十分に告知せず、「スプレッド取引だから安全だ。儲かります。」などと断定的、利益誘導的勧誘をした旨主張する。
しかしながら、まず、説明義務違背の点について検討するに、成立に争いのない乙第一号証ないし第四号証、によれば、被告会社は、Aから商品市場における先物取引の受託をするにあたり、リスク開示告知書、「海外商品取引における先物取引委託の手引」、「売買取引契約書の別紙」(売買取引契約書と一体となるもので取引内容及び充用有価証券の詳細についての説明が記載されている。)を交付し、その取引の理解と投機性の注意を促していること、また、被告Y5もAに対し、パンフレット、日本経済新聞、経済雑誌、罫線等を持参し、それらに基づきスプレッド取引の内容も含め二回にわたり海外先物取引の仕組、追い証、損切り、難平、両建て等の取引方法等についても具体例も挙げて説明していることが認められる。
ところで、商品取引員が、海外先物取引のような高度の専門知識と経験を有する投機への参入を、未経験の一般人に勧誘するにあたっては、契約締結の準備段階に入った者の信義則として勧誘を受ける者に対し、海外先物取引の仕組と、それが投機であって危険を伴うものであることを十分に理解させるための説明をすべき義務を負うものということができるが、その程度、内容は、それが信義則の適用場面であることからして、一律に求められるものではなく、勧誘の相手方の知的水準、年齢、社会又は家庭における地位、教養、資力等を総合して個別に判断されるべきものといわなければならない。
これを本件についてみると、Aは、長年にわたり小学校の教員を勤めた社会常識と教養を備えた知識人であり、このようなAに対し、外務員たる被告Y5のした前記認定の説明の程度、内容は、一応の必要性を備えているものと認められ、これをもって説明義務を尽くさず信義則に反するものとまで評価することはできない。
次に断定的、利益誘導的勧誘の点について検討するに、被告Y5が右のような言辞を弄したとの点については、本件全証拠によるもこれを認めるに足りる的確な証拠はない。そして、被告会社は商品取引員であり、海外先物取引のため顧客を勧誘するにあたっては、従業員たる外務員の才覚により、顧客に対し当該取引によりある程度利益を得られるものと期待させるような言辞を用いて説明することはありうることであり、それが真実に反するものでなく、かつ法令又は業界内の規制等に違反するものでない限り、この種の取引の勧誘行為に通常伴う常套的な言辞の範囲内のものとして許容されるものといって差し支えない。更に、よしや同被告においてAに対し右のような断定的判断の提供等がなされたとしても、それ自体具体例を挙げたわけではなく、はなはだ抽象的かつ断片的な表現で自らの主観的判断を述べたものであり、また、前述したAの知識水準から考えて、同人は、その意味するところが所詮は予測以上のものではないことをわきまえ、自己の責任と判断において取引をするかどうかの意思決定をなしうる能力を十分有していたものといわざるを得ず、同被告の右言辞がAをして利益を生ずることが確実であると誤解せしめる(商品取引所法九四条一項一号)ものとは到底いい難い。したがってまた、右勧誘がAの無知、困窮に乗じたものともいえないし、強引・執拗になされたとか、虚偽の事実を告げてなされたとの事情も証拠もないのであるから、右勧誘は結局のところ、同法九四条一項一号等に反するものではなく、また、その態様・方法等において、社会通念上商品取引員における外務員の行為として許容されうる範囲を逸脱したものすなわち、社会的相当性を欠く違法なものとまでいうことはできない。
4 無断売買の主張について
本件証拠を検討するも、本件海外先物取引が被告らによってAの指示に従わず勝手になされたことを認めるに足りる的確な証拠はない(成立に争いのない甲第一八号証、第一九号証、原本の存在及びその成立に争いのない甲第一号証、被告Y1本人尋問の結果に弁論の全趣旨を総合すれば、被告会社では、顧客に対し、取引の都度買付・売付受注伝票を送付し、また、毎月末にはその時点での預り保証金残高・建玉・枚数・銘柄・値洗い・損益等を記載した残高照合書を送付し、顧客の署名・捺印を得てその返送を受けていたことが認められるところ、Aが被告らに対し本件海外先物取引につき異議を申出た形跡はない。なお、Aが東大病院に入院中の昭和六一年一月一七日頃から同月二二日頃までの間の本件海外先物取引に関する被告会社内でのAの担当者が誰であったのかは、被告Y1、同Y5、同Y3らの各本人尋問の結果によってもなお判然としないけれども、前述したように、逆に積極的に右の間の取引がAの指示に従わず勝手になされたとまで認めるに足りる的確な証拠はない。)。
したがって、原告の右の主張も理由がない。
そうすると、本件海外先物取引に違法性があるとする原告の主張については、立証が十分でないことに帰着するので、その余の点について判断するまでもなく、原告の被告らに対する請求はいずれも理由がないといわざるを得ない。
三 以上の次第で、原告の請求はいずれも理由がないので棄却することとし、訴訟費用の負担について民訴法八九条を適用して、主文のとおり判決する。
(裁判官 小澤一郎)